SEVENTH-DAY ADVENTIST CHURCH

奴隷から総理大臣へ(ヨセフ物語)

奴隷から総理大臣へ(ヨセフ物語)

聖書と証の書(教会で使用している洞察に満ちた聖書の解説書)の言葉

創世記 37・39~50章

(引用:http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html)

『人類のあけぼの(上巻)』 234、235頁
(引用:https://m.egwwritings.org/ja/)

ヨセフは(しっとにかられた兄弟たちから奴隷として)売られた隊商に連れられてエジプトに向かった。・・・ヨセフは、しばし悲哀と恐怖の念にかられて気が狂いそうであった。

・・・ヨセフはわずかの時間のうちに、数年かかっても得られない教訓を学んだ。彼の父は、強くやさしい愛の人であったが、彼を特別に愛してあまやかしたことは彼のためにならなかった。この愚かな偏愛は兄弟たちを怒らせ、彼らに残虐行為を行わせ、ヨセフを家庭から引き離す原因になった。

その影響は、彼自身の性格にもあらわれていた。彼は、これまでに助長された欠点を改める必要があった。彼はうぬぼれの強い苛酷な人間になりつつあった。彼は、父親のやさしい保護になれていたので、前途の困難と、異国人また奴隷としてのきびしい、誰の保護もない生活になんの準備もないことを感じた。

そのとき彼は、父の神のことを考えた。彼は幼いときから、神を愛し恐れることを教えられていた。・・・

彼はどのような環境のもとにあっても、天の王の臣民らしく行動し、神に忠誠を尽くそうと決心して大きな感動を覚えた。・・・

この一日の経験が、ヨセフの生涯の分岐点になった。その恐ろしい不幸が、甘やかされた少年から、思慮深く、勇敢で沈着な大人に彼を変えたのである。

『人類のあけぼの(上巻)』 235、236

エジプトに到着したヨセフは、パロの侍衛長ポテパルに売られてそこで10年間仕えた。ここで彼は非常に大きな誘惑にあった。彼は、偶像礼拝のただ中にいた。偽りの神の礼拝は、王宮のあらゆる栄華に取り巻かれ、当時最高の文明国の富と教養にささえられていた。しかし、ヨセフは彼の純真さと神への忠誠を保った。彼の周囲には、至るところに罪悪の光景や物音があったが、彼はそれを見ようとも聞こうともしないのであった。

彼は、禁じられた問題を考えないのであった。彼はエジプト人の好感を得ようと望んで原則を隠すことをしなかった。もし、彼がそうしたならば、試練に負けたことであろう。しかし彼は、父祖の信仰を恥と思わず、自分が主の礼拝者であることを少しも隠そうとしなかった。

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、……その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(創世記39章2、3節)。

ポテパルのヨセフに対する信任は日ごとに増し、彼はついにポテパルの家令に任じられ、財産を全部ゆだねられた。「そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった」(創世記 39章6節)。

『人類のあけぼの(上巻)』 237頁

ところがヨセフの信仰と誠実とが、火のような試練にあうことになった。主人の妻が神の律法を犯すように彼を誘惑した。・・・

ヨセフの答えは、宗教的原則の力を示した。彼は、地上の主人の信頼を裏切ろうとしなかった。そして、結果がどうなろうと、彼は天の主人に忠実であろうと願った。・・・
ヨセフはまず第一に神のことを考えた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」と彼は言った(創世記 39章9節)。

もし、神がわれわれのなすこと、言うことのすべてを見聞きして、その言行動作をそのまま記録しておられること、そして、われわれはいつかそのすべてに当面すべきであることを常に念頭においていれば、罪を犯すことを恐れるであろう。青年たちはどこにいて、何をしようとも神の面前にあることを覚えていよう。・・・

『人類のあけぼの(上巻)』 238、239頁

ヨセフは、廉潔であったために苦しみを受けた。彼を誘惑した者は、道にはずれた罪の汚名をヨセフに着せて恨みを晴らし、彼を獄屋に投げ入れた。もし、主人が妻の訴えをそのとおりに信じたならば、ヨセフの命はなかったことであろう。しかし、ヨセフの生活態度に表わされていた慎みと正直とは、彼の無実を証明していた。

しかし、主人の家の評判を傷つけないために、ヨセフは恥辱と束縛を受けることになった。ヨセフは初め、獄屋番の過酷な扱いを受けた。・・・しかし、・・・彼は信仰と忍耐を堅く守り通した。・・・
(聖書の詩篇105篇17~19節(引用:http://bible.salterrae.net/kougo/html/psalms.html)をご参照)

彼の長年の忠実な奉仕は不当な報いを受けることになったが、・・・彼は自己の無実を自覚していたから、心は平静であった。・・・

彼は自分の逆境を悲しまず、かえって他の人々の悲しみを軽減することによって、自分の悲しみを忘れようとした。彼は、獄屋の中でもなすべきことを見い出した。・・・

彼は獄屋の中で、圧迫と専制の結果、また、犯罪の結果を目撃し、正義、同情、慈悲の教訓を学んだ。これが、知恵と同情をもって権威を行使するための準備を彼に与えたのである。

ヨセフは徐々に獄屋番の信任を得るようになり、ついには、すべての囚人の責任をゆだねられるようになった。彼の日常生活にあらわれた誠実さ、また、悩み苦しむ人々に対する同情など、彼が獄屋の中で行ったことがヨセフの将来の繁栄と名誉への道を開いた。

われわれが他人に輝かす光は、すべて、また自分たちに反映する。悲しむ者に語るすべての親切で同情に満ちた言葉、しいたげられている者を救うすべての行為、貧しい人々へのすべての贈り物などは、それらが正しい動機から出たものであるならば、必ず祝福となってそれを与えた者に戻ってくる。

【『教育』47、48頁】

ヨセフは無実の罪をうけて弁明の自由も赦免の望みもなく国家の罪人としてパロ(エジプトの王)の牢獄につながれたが、非常な危機に際して国民の指導者として召し出されたのであった。

『人類のあけぼの(上巻)』 243、244頁

(エジプトの王が見た2つの夢の解き明かしをヨセフが見事に行い、さらに牢獄の中でのヨセフのふるまいについての評判を王が聞き、王が熟慮した末、)
任命は決定された。ヨセフにとって驚くべき宣言がなされた。・・・

ヨセフは獄屋からエジプト全国のつかさ(総理大臣)にと高められた。それは、高い名誉ある地位ではあるが困難と危険とが伴うものであった。

人間は、高い頂に立てば必ず危険に会うものである。嵐は谷間の低いところに咲く花をそこなうことはないとしても、山頂にある大木を根こそぎにすることがある。

同様に、平凡な生活のときには廉潔を保って来た人も、世的成功と名誉に伴って誘惑に敗れて深い穴に落ちこむことがある。しかし、ヨセフの品性は、繁栄のときと、逆境のときの両方の試練に耐えた。・・・

ヨセフを通して、エジプトの王や高官たちの注目は、真の神に向けられた。彼らは偶像礼拝を続けてはいたものの、主なる神の礼拝者の生活と品性にあらわれた原則を尊敬するようになった。

『人類のあけぼの(上巻)』 245、246頁

ヨセフはどのようにして堅固な品性を持ち、正しく知恵ある者としての記録を残すことができたのであろうか。彼は幼少の時代から、自分の好みよりも義務を第一にしていた。・・・

神のみわざを通して神と交わり、信仰の継承者たちに伝えられた偉大な真理の数々を瞑想することにより、ヨセフの霊的な性質は高められ、気高くされ、他のどんな研究も及ばないほどに、彼の心を広げて強くした。

最も低いところから、最も高いところにいたるまで、あらゆる場所にあって忠実に義務を果たしたことはすべての能力を最高の奉仕のために発揮する訓練となった。

創造主のみこころに従って生きる者は、最も真実で最も高尚な品性を発達させることができる。・・・

人生における小さなことが、品性の発展にどんな影響を及ぼすかを悟っている人は非常に少ない。われわれのなすべきことで、ほんとうに小さいというものは一つとしてない。

われわれが日ごとに直面する環境は、われわれの忠実さをためし、さらに大きな信頼を受ける資格がある者かどうかをためすために意図されている。・・・

正しい品性は、オフル(サハラ砂漠にあった古代の国)の黄金よりもさらに大いなる価値がある。・・・しかし、(正しい)品性は遺伝しない。それは買うこともできない。・・・高尚な品性の形成は一生涯かかる仕事である。

『人類のあけぼの(上巻)』247頁

豊年の開始と同時に、やがて近づいてくる飢饉のための準備も始まった。ヨセフの指揮のもとに、エジプト全国の主要な町々には、巨大な倉庫がつくられ、・・・ついに貯蓄してある穀物の量を計ることができないまでになった。

やがて、ヨセフが予告したように七年間の飢饉がやってきた。・・・「その飢饉はすべての国にあったが、エジプト全国には食物があった。・・・飢饉が地の全面にあったので、ヨセフはすべての穀倉を開いて、エジプト人に売った。」(創世記 41章54、56節)

『人類のあけぼの(上巻)』 249頁

ヨセフが兄弟たちから離れていた年月の間に、ヤコブの子らは品性が変わっていた。彼らは、かつてはしっと心が強く、乱暴で、人をだまし、残酷で執念深かった。しかし、こうして逆境の中で試練にあったときに、彼らは無我の精神をあらわし、互いに真実で父に孝養をつくし、彼ら自身すでに中年に達していたが、父の権威に従うようになった。

『人類のあけぼの(上巻)』256頁

(食糧を買いにカナンの地からエジプトに来たヨセフの兄弟たちは、エジプトのつかさがヨセフであることを知らずにヨセフから食糧を買い、その帰り道にヨセフの使いから詰問を受けて)
彼らは、家づかさのあとについて邸宅に行ったところ、そこにつかさがまだいるのをみつけて、彼の前にひれ伏した。

ヨセフは彼らに言った。「あなたがたのこのしわざは何事ですか。わたしのような人は、必ず占い当てることを知らないのですか」(創世記 44章15節)。
ヨセフは、兄弟たちから罪を自覚することばを聞きたいと思っていた。彼は、占いの力が自分にあると言ったわけではないが、彼らの生涯の秘密さえも見通すことができるのだと彼らに信じさせたかったのである。

『人類のあけぼの(上巻)』257頁

深い悲しみにくれて、ユダはつかさに近づき哀願した。・・・

「・・・しもべは父にこの子ども(末弟のベニヤミン)の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。どうか、しもべをこの子どもの代わりに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子どもを兄弟たちと一緒に上り行かせてください。この子どもを連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」(創世記 44章30~34節)。

ヨセフは満足した。彼は兄弟たちの中に真の悔い改めの実を見ることができた。このユダの高潔な言葉を聞いて、兄弟たち以外の者に外へ行くように命じ、声をあげて泣き叫んだ。「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(創世記 45章3節)。

兄弟たちは恐れ驚いて身動きひとつせず、立ったまま黙っていた。しっとにかられて殺そうと企て、ついに、奴隷に売ってしまった弟ヨセフが、エジプトのつかさになっているとは。・・・

『人類のあけぼの(上巻)』258頁

ヨセフは、兄弟たちの取り乱したさまを見て、やさしく「わたしに近寄ってください」と言った。彼らが近寄ったので彼は続けた。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(創世記 45章4、5節)。

ヨセフは、兄弟たちが自分に対する残酷な行為のために、もう十分に苦しんでいることを感じて、彼らの恐怖心を取りのぞき、自責の痛みをやわらげようと気高くもつとめた。

『人類のあけぼの(上巻)』 259、260頁

ヤコブのむすこたちは、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」という喜びの知らせをもって父のところに帰った。ヤコブは最初、驚きのあまり、それをほんとうだと信じることができなかった。

しかし、車や荷物を積んだ家畜の長い列を見、もうひとたびベニヤミンを見たヤコブは、それを信じた。「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」と喜びに満たされて叫んだ(創世記 45章26、28節)

十人の兄弟たちは、もうひとつ身を低くしてなすべきことがあった。彼らは、長年父の生涯を苦しめ、また、彼ら自身の生活を悲惨なものにした欺瞞と残酷な行為とを父に告白した。

ヤコブは、彼らがそれほど卑劣な罪を犯していたとは思わなかった。しかし、神がすべてのことをよいように支配してくださったので、むすこたちのあやまちを許し、祝福した。

『人類のあけぼの(上巻)』 269、270頁

神から恵みを受け、大いなる責任をゆだねられた人物も、今日のわれわれが、苦しみ、よろめき、しばしばあやまちを犯すのと同様に、時には誘惑に負け、罪を犯した。彼らの欠点と愚行とがはっきり(聖書に)書いてあるのは、われわれに対する励ましと警告のためである。

もしも彼らが全然あやまちのない者として記録されていたならば、われわれのように罪深い者は自分の失敗やあやまちに絶望してしまうかもしれない。しかし、われわれと同じように失望しつつも戦いぬき、われわれと同様の誘惑に負けたが、それでも神の恵みによって勇気づけられ、勝利したことを知るとき、われわれもまた、義を追い求めるように励まされるのである。

彼らが、時には打ちひしがれながらも、ふたたび立直ちなおって神の祝福にあずかったように、われわれもイエスの力によって勝利者となることができるのである。

一方、彼らの生涯の記録は警告でもある。神は、いかなることがあっても、罰すべき者を許さないことを教えている。神は、ご自分の最も愛する者の中にも罪をごらんになり、光や責任がわずかしか与えられていない者よりも、彼らを厳格に取りあつかわれるのである。

人類のあけぼの(上巻)』 270、271頁

ヤコブ(ヨセフと兄弟たちの父親)を埋葬したのち、兄弟たちの心はふたたび恐怖に満たされた。ヨセフは兄弟たちを親切にあつかったにもかかわらず、彼らは良心の呵責から不信と疑惑をいだいた。ヨセフは父親のことを考えて復讐を遅らせたのであろう。ヨセフはこんどこそ長い間延ばしていた罪の罰を、自分たちに与えるだろうと彼らは考えた。

・・・兄弟たちは、勇気を出して彼(ヨセフ)のもとに来て、「このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」と言って彼の前にひれ伏した。ヨセフの兄弟たちに対する愛は深く、無我の精神から出たものであったが、兄弟たちがまだ自分に復讐の精神があると思っていることに心を痛めた。

彼は言った。「恐れることはいりません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子どもたちを養いましょう」(創世記 50章18、19~21節)。

『人類のあけぼの(上巻)271,272頁

ヨセフの生涯はキリストの生涯を表わしている。兄弟たちがヨセフを奴隷に売ったのはねたみからであった。・・・

ヨセフは、エジプトの奴隷になることによって、父の家族の救済者となった。しかし、このことは兄弟たちの罪を軽くするものではなかった。同じようにキリストは敵のために十字架につけられ、人類の贖い主、堕落した人類の救い主、全世界の支配者となられた。しかし、神がご自分の栄光と人類の幸福のために、摂理のみ手によって諸事件を支配されなかった場合と同様に、キリストを殺した人々の罪は、重かったのである。

ヨセフが兄弟たちによって異邦人に売られたのと同じく、キリストもまた、ご自身の弟子のひとりによって、最も憎むべき敵に売り渡された。ヨセフは、節操を守ったために、偽証によって牢獄に投げ込まれた。キリストも同じように、彼の自己否定の生涯が周囲の人々の罪に対する譴責となり、正しかったためにあざけられ、捨てられたのである。なんのとがも犯さないのに、偽証人の言葉によって罪に定められた。

ヨセフが、不正と圧迫を受けても忍耐し、柔和であって、また無常な兄弟たちに対しても許しと高貴な寛大の精神を表わしたことは、悪人たちの嘲笑と悪意の中にあってもつぶやくことなく忍耐し、彼を殺害した者ばかりでなく、彼のもとに来て罪を告白し、許しを求めるすべての者を許す救い主を象徴している。

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