あるとき、一人の牧師が、教会員の前で、 「今日、私の尊敬する牧師をご紹介します」 と言って、一人の老牧師を紹介しました。 「一言何かお願いいたします」 。

そこで、年老いたその牧師はゆっくりと語り出しました。
「おはようございます。昔、一人のお父さんと、その一人息子と、そしてその息子の友達がおりまして、3人で海に出かけました。3人を乗せたボートが沖まで来たとき、穏やかであったはずの海がとたんに荒れ始めました。

とうとう、ボートがひっくり返ってしまいます。お父さんはボートになんとかしがみついていましたが、息子とその友人は流されてしまいました。しかし、まだ、今でしたら、ボートの命綱を投げることのできる距離です。しかし、父親が投げることができる綱は1本でした。

そこでお父さんは、息子に投げるか?息子の友達に投げるか?一瞬戸惑います。 そのとき、父親は瞬時に考えました。 『自分の息子は既に神様を信じている。いつ何時、主に召されても、イエス様の救いを受けて、永遠の命をやがて受けることができる。しかし、息子の友人は、まだのようだ』。

そう思い、父親は息子の友人に命綱を投げるのです。そしてその友達を引き寄せたときには、息子さんはもう見えなくなっていました」。  このようなお話をされました。

その話を聞いていた一人の男性が老牧師の所に進み出て、質問をしました。
「感動的なお話でした。しかしお伺いしますが、人はそのようにされたからといって、必ずしも神様を信じるようにはならないのではないでしょうか?しかも、これはどちらかというと、救われた本人にとっては強制まがいになりはしませんか?」

老牧師は答えました。 「その通り、必ずしも信じるようになるかどうかは本人の選びです。しかし、その機会を与えるためにお父さんは友人を選ばれたのです。そして、真理というものは、強制しなくても、選ばれてゆくものです」。

老牧師はその男性のことを思って、さらに続けました。 「実は、このお父さんは、僕のことなんだよ。そしてあの友達とは、私をここに招いてくれた、あの方、あの牧師が、息子の友達なんです」。

この老牧師の名前は誰だか分かりません。しかし、私たちには分かります。父親に助けていただいて、今は使命を担っている友人は、私たちであること。  そして、その一人息子を失った父親は神様であることを。