「猫の皿」という落語があります。骨董を扱う「果師(はたし)」と呼ばれる商人が田舎を回り、掘り出し物を見付けては、言葉巧みに格安で買い取ります。それを江戸で高い値で売る。しかしこれは、よほど目が利かないとダメです。たとえ目が利いても、掘り出し物は、そう簡単に出るものではありません。

 

「今日はさっぱりだ、まいったな」と果師が古い茶店で一服していますと、一枚の皿が。

ジ~ッと眺めますと、これが何と「高麗の梅鉢」。300両はくだらないというものです。しげしげと見ているとその側で猫がアクビをしています。

「猫にこの皿で飯を食わせているということは、店の主人、皿の値打ちを知らないな・・・」。

果師、猫を嬉しそうに抱き上げまして、主人に尋ねます。

「大将、この猫あたしにくれねぇか。ただで貰おうってんじゃない。小判3枚で」。

「そんなに!どうも、この猫は幸せものでございます。うんと可愛がってくだせえ」。

「ところでなんだ、この皿で、猫に飯食わせてんだろ。猫っていうのは、皿が変わると食わねぇっていうだろ、この皿持っていくが、いいかい?」。

「それは駄目でございます。その皿、こんなところに置いてありますが、高麗の梅鉢と言いまして、300両はくだりません。こっちの茶碗でも食べますから、これをどうぞ」。

「知ってたのかい、じゃあどうしてこんな大事な皿を猫に使っているんだい?」。

「へぇ、そうしておきますと、猫が時々、3両で売れますんで・・・」。

 

目利きの果師、目利きの主人のばかしあい。だたし2人とも目は確かでした。

聖書にも、目利きの商人が出てきます。

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイによる福音書 13章45、46節)。

この商人も目が利く人です。方々を歩き回って、素晴らしい真珠を見つけ、それを買うために、持ち物を全部売り払います。

 

私たちも問われています。目利きか否か?ものの価値を見極める力があるか?

大切なことはたくさんあります。しかし最も大切なことのためには・・・他の大切な事柄を犠牲にすべき時があります。そこで、問われてくるのは、価値を正しく見極める力です。自分の思い込みや、先入観にとらわれることなく、現実をしっかりと見定めて、正しく判断をしてゆく、価値を見極める力が必要なのです。

 もし、私たちが日常の雑事ばかりに捕らわれて、最も大切な事柄に着手できないとするならば、本当の意味で、ものの価値がわかっていないことになります。真珠を見つけた商人のように、目利きとなって、真に価値あるものを大切にしてゆきたいと思います。

神様は、最も良いものを与えてくださろうとしています。それなのに、私たちの両手がたくさんの荷物でふさがっていてはなりません。