SDA東京中央教会

はらじゅくニュース

『希望を伝える器として』
沖縄アドベンチスト・メディカルセンターチャプレン(前・東京中央教会副牧師) 山本 義子

 人は少しぐらい食べなくても飲まなくても生きられます。けれども、空気もそうですが、人は希望なしには、一瞬たりとも生きられないのです。フランクルという人は、ドイツのアウシュビッツ強制収容所の体験記録『夜と霧』の中で、一つの事件を報告しています。1944年のクリスマスには、開放されるだろうという噂が収容所の中に広まっていきました。人々はその噂に望みをつないでいましたが、それは実際には甘い幻想に過ぎなかったことがわかりました。まるで幼い子供のように指折り数えて、その日を待ち焦がれていたのかもしれません。ところが、その事が現実とはならなかった時、心にあった望みの綱が断たれた時、収容所では、いまだかつてなかった程多くの人々の命が失われたのです。
 フランクルは次のように言っています。 「一つの未来を、彼自身の未来を信じることのできなかった人間は、収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼は、そのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」
 山形謙二先生は、『隠されたる神』という著書の中で、「この例は、人間存在にとって未来への希望がいかに大切なものであるかを端的に物語っている。希望を失う時、人間は精神的のみならず、肉体的にも滅びていかざるをえない。希望こそ私たちに生きる力を与えるものである。…私たちは救い主キリストにおいてのみ、未来への希望をもつことができる。」と述べておられます。
 本当にそのとおりだと思います。5年前の9月に父を亡くしまして辛い時期を過ごしましたが、幸いにも父が残していった信仰を受け継いでいる私にとって、聖書の御言葉の約束に慰めを得て希望をつなぐことができ、これまで支えられてきました。この事を通して、失ってみなければわからない人の生命の尊さ、その存在の重さのようなものを体験させていただいたような気がします。実際に、現実に自分の身にふりかかってきた時に、聖書の真実の一つ一つの御言葉が、心と体全体にしみわたってきました。
 私は父を失うという体験により、自分の内には愛が大きく欠乏していることを知らされました。そのことにより、キリストの再臨への希望が大きくふくらみを増しています。イエス様がエルサレム入城される時に、人が乗ったことのない子ろばを、ご自分の用に選ばれましたが、本当の希望であるキリストを一人でも多くの方に伝えることができるように、神様に用いていただける器になれたらと思います。これからも、皆さまのお祈りによって小さな器を支えて下されば感謝です。