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2008年1月 第254号                                        


<信仰遺産継承>
“教会のお母さん”、ありがとう−伊藤冬子さんを偲んで

       SDA東日本教区長・元東京中央教会牧師 千先 勉

 今、南極越冬隊員としてご活躍中の新井直樹さんと詩織さんの結婚式でのことです。それぞれのご両親に花束が渡されたあと、ひときわ大きな花束が用意されていて、
 「教会のお母さんに」
と、ミセス伊藤が呼び出されました。そして、花束が渡されるや、式場いっぱいに、大きな拍手。あの時のミセスの、満面に笑みをたたえた表情は忘れられません。「新井さん、さすがア」と、一同唸ったものですが、それは、ミセス伊藤に対して誰もが抱く「教会の私たちのお母さん」という共感を拍手に託して唱和した、すばらしい瞬間でもありました。
 ミセスの笑顔は、全てを「大丈夫、いいのよ」と受け入れ、包んで安心感を与えてくれるものでした。牧師を目指したいけれど、費用が不足と聞けば、「志があれば、神様が必ず助けて下さるわよ」と後押しして、ひそかに援助しておられたのを、私は知っています。
 野暮な対応しかできない青年を見つめる、慈愛にあふれたまなざし。かと思えば、礼拝堂の受付で荒々しい声を張り上げている男の人を見て、「あのような人も、教会に来るのは、よほど求めているからなのよ」と、ひるむ教会員たちをシャンとさせたり、忘れえぬエピソードを、枚挙にいとまがないくらい次々に創った、まさに“教会のお母さん”でした。
 再び、あの笑顔に接することができないのだと思うと、ミセスの存在の重さを改めて感じます。同時に、生きて善きお交わりを重ね、数々の尊い“思い出”を遺して下さったことに、尽きぬ感謝の念でいっぱいになります。
 この1月7日、満百三歳を迎えられる予定でした。百歳を過ぎても悠然と一人暮らし、あくまでも前向きで、不満・不平の言葉は一切なく、まさに心は天国に置いておられるような、潔さがありました。
 思えば、こんなこともありました。修養会か何かで旅行の折、集合写真を撮ったら、一人一人がとても良い表情に仕上がり、「私の黒枠写真ができたわ」という声頻りでした。と、最高齢のミセス、すまして「お見合い写真ができたわ」と、笑いをさらってしまいました。
 とにかく、発想が徹底してポジティブなのです。それは、ほかでもない、ミセスの信仰あってのことなのです。遺品の白いノートに、「私にピッタリの聖句」として、テサロニケT、5章の16〜18節、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」と書いておられます。まさにそのように生きられた信仰の先達でした。神様と人に仕え、持てる全てを潔く注ぎ抜かれた人生だったからこそ、長寿も与えられ、多大な信仰遺産の“思い出”をたくさん私たちの心に播いていかれたのかと、今更ながら思うのです。
 ミセスは、「主人はこの世の財は一切遺してくれませんでしたが、信仰というかけがえのない宝を遺してくれました」とよく言っておられました。純な、天使のような伊藤第一長老をひたすら尊敬し、仕え、支えておられました。告別式の行われた12月12日、安らかなお顔に接し、主に仕え人に仕え切られたミセス伊藤の信仰遺産を、より広く大きく花開かせるようにしたいと、改めて強く誓ったことでした。
 この信仰遺産を、中央教会がいただいている特権を、主がおいて下さる時を早める糧にしたいものです。


楠見恵子さん、あなたは精一杯、人生を生き抜かれた


                SDA東京中央教会牧師 長池 明夫
 昨年の6月下旬頃でありました。たどたどしい日本語で、アンダーソン信子さんという方から電話があり、姉の恵子さんが病を得て入院加療中の身であること、また、その病態が思いのほか重く、回復の見込みが厳しいことを説明してくださいました。そして、実は、二人でバプテスマを受けたいので、その準備をよろしくお願いしたいということでありました。それ以来、私は病室へしばしばお伺いするようになり、楠見恵子さんとの本格的な交流が始まりました。
 楠見さんは、皆様もご存知のように、かつての名長老であられた故伊藤繁美氏のご長女で、幼少の頃より東京中央教会へ通っておられましたし、お父様について聖書の手ほどきを受けてこられたという経緯もあり、聖書やSDAの郷里については大変造詣の深い方です。それで、短い期間で信仰の中身を確認することができ、昨年の8月25日のバプテスマ式に臨んだのでありました。楠見さんは病を得て、ご自分の人生や死、また救いについていっそう深く考えていかれるようになりました。そして、その一端をこのように証ししてくださったのです。
 「私は小さい頃、父の鞄を持って教会の門をくぐるのを誇らしく思っていました。そしてその頃は、自分が将来信仰を持ってSDAになることには、ちっとも疑いを持っていませんでした。しかしその後、自分の中に大きな変化の兆しが現れ始めたのです。この世の価値観について知りたいと思うようになり、その後は自己実現のために、精一杯闘い、自分なりに人生を謳歌してきたのです。
 しかし、病を得てから急速に聖書やイエス様について考え始めました。特に米国から妹が看病に来てくれて、『今まで離れ離れで十分に姉妹としての交流を図ることができなかった、だから、もし何事があっても天国で家族みんなが再会できるようにバプテスマを一緒に受けよう』と、彼女に諭されてやっと決心がつきました。
 私は親譲りの頑固で慎重な性格なんです、このような病を背負って砕かれないと、きっとバプテスマを受ける決心はつかなかったと思います。ですから、神様は永遠の命を私に与えるために今の病を許されたのだと思います。いずれにしても、幼い頃父の鞄を誇らしげに抱えて安息日に通っていた頃の自分近づくことができて感無量です。父と母と、そして育ててくれた母と妹たちに感謝したいし、キリストの再臨の後、天国において伊藤ファミリーとして再会できることを自分の究極の望みとし、今を精一杯生き抜きたいと願っています。そして、人生というのは、むしろ苦労することのほうが多いかも知れないけれども、万事を益としてくださる神のみわざが、振り返ればよくわかる気がいたします。」
 楠見さんの葬儀では400人もの弔問の方々が別れを惜しまれました。大半は社会福祉の現場で楠見さんにお世話になった方々でありました。その方々が口々におっしゃいました。
 「楠見さんに頼めば何とかしてくれる。そう思って、私たちはどれほど楠見さんに助けられたか知れません。」
 病室で語ってくださった、楠見さんのある述懐が今でも忘れられません。「SDAとしての父の後姿を見るにつけ、信仰を持ってキリストに従うというのは、かくも厳しいものかと思いながら、しかし自分は自分という道を歩んできたつもりですが、振り返れば、私も父と似たようなことをしているのだと思うことがしばしばありました。」
 遠い昔、お父様や育ての母親を通して伝えられたキリストの福音と無関係ではなかったはずであります。楠見さんは息を引き取られる直前まで大変苦しまれました。しかし神様は、「死」というしばしの眠りにつくことを通して、その苦しみ、死のトゲから楠見さんを解放してくださったのでありました。11月14日深夜午前2時24分、この世のすべての重荷を脇に降ろして、御国を望みながら船出をなさったわけであります。66年に渡る充実したご生涯でした。





ぽえむ      

公園の手品師老いたピエロよと
   銀杏唱いし佳曲ありけり
夕日浴びきらりひらりと
黄金(きん)の舞
   
適う(かな)表記はやはり「いてふ」か

伊藤冬子さんー
若輩の
()さき奉仕をめでたもう
   長老夫人の麗しき笑み
「エディタさんごくろうさまね」ふくよかな
   白き笑顔につつまれてあり (保夫)


                                                                              


            
栃金(とちがね) 実さん、楽しい語らいの日々をありがとう

                   SDA東京中央教会教会員 園田 夏
 
「栃金さんがなくなられた。」と息子から報せがあり、11月22日が告別式だと。
 私は、二ヵ月半の入院生活を終え、寝たり起きたりの生活で、歩行も危なっかしい状態だった故、告別式に参加出来ず、申し訳なく思っています。
 栃金さん御夫妻とは、昭和54年春頃、大岡山教会から、中央教会に転会していらっしゃって、安息日学校の教課のクラス御一緒だったので、親しくお交際させて頂きました。港区芝公園の御自宅に伺ったり、山梨県の八ヶ岳の別荘に招待して頂いたりしました。婦人伝道師の立志つき先生、佐伯さん(横溝ナツ子さんの母上)、私の三人で新宿からバスで行き、終点に着くと、栃金さんが満面の微笑みを浮かべて待っていて下さいました。
 早速、別荘の方へ案内され、奥様の手料理のお心のこもった昼食を御馳走になり、楽しい語らいの一刻を過ごしました。夜はホテルで夕食、一泊させて頂き、翌日は、皆で散策、午後、お土産まで頂戴して、又、バスで帰りましたが、今、思い出しても、本当に楽しい日を過ごさせて頂きました。
 でも、同行された立志つき先生も佐伯さんも、ご招待して下さった栃金さん御夫妻も、お亡くなりになり、此の世に遺ったのは、私一人。その私も88歳。いつの日か、再び天国でお会い出来るのを楽しみにしています。
 栃金家では、奥様のムメさんが先に、国谷秀先生によって、バプテスマを受けられました(昭和23年7月17日)。その後、ムメさんは、国谷先生による聖書研究を自宅でお始めになりました。
 実さんは、宗教の自由は認めるが、夫である自分に相談もなく始められたこの集会が不満で、集まりのある日は、わざと遅く会社から帰宅されたそうです。玄関に入って、まだ国谷先生の靴があるのを見ると、又出て行って、頃合を見計らって帰って来られたということでした。
 でも、国谷先生と奥様の熱心な祈りが、主のみ心に届いたのか、或る日、突然、教会に行ってみようかなアというお気持になられたとか。そして遂に、奥様より2年おくれて、昭和25年7月3日、やはり国谷秀先生の司式で、多摩川でバプテスマをお受けになりました。それからは、安息日を休むことなく教会へ通われたそうです。
 平成8年夏、奥様が亡くなられた後も、お一人で、中央教会に出席なさり、礼拝堂の正面に向かって右側の前から二番目の席に座っていらっしゃいました。私はその後ろの席でした。今でも私はその席に座っています。
 でもやがて、実さんは、だんだん耳も遠くなって、補聴器をつけておられましたが、目の方も悪くなってきたと仰るようになりました。或る日からお姿が見えなくなり、淋しく思っておりましたが、お元気なうちにもっとお訪ねすればよかったと、今、後悔して、申し訳なく思っております。
 御遺族の皆様の上に、主のお慰めと、おささえがございますよう祈るのみです。

         

“おばちゃん、またね”


                 SDA東京中央教会教会員 平沼 杏子
 
伊藤のおばちゃんがとうとう行ってしまった。あと1ヶ月もすると103歳のお誕生日なので、“お祝いしようね”と、少しは励みになるかなーと、口にしたのだけど、気弱そうな微笑を浮かべただけで、あまり楽しみな目標はないみたいだった。お家より安心して過ごせる衛生病院に戻って、最期の数週間を静かに過ごせて何よりと、感謝の気持ちでいっぱい。神様がして下さることは時にかなって美しいのは本当だと、心底嬉しかった。6階の病室に行ってももう居ないのか、つまらないなーと、おばちゃんのことに思いを馳せている。でもおばちゃんにしてみれば、この時をもう随分前からずっと期待していたのだから、喜ばしい“安堵”の幕引きであったと思っている。長ーい人生行路を随分とご一緒させて頂いて、私は果報者と思う。しばらく前までは、朝、寒い蒸しタオルを渡すと自分で顔を拭けたし、“ハイ”と手のひらにローションを落としてあげると自分でたたくこともできた。髪が伸びたのを気にして何度か美容師さんに来てもらったりもした。朝食のフレークもお気に入り。柔らかいパンにはジャム。飲み物は必ず豆乳。まあ違ってバターや牛乳が出ると大失望で、私は取り替える橋渡しをして大層喜んで頂けた。もう数え切れないほど何回も病室で一緒に過ごして支えていただいたことを特権と思う。おばちゃんのように美しく、綺麗で、やつれも無く人生を全うできたらと思う。真似をして頑張らなくっちゃ!。おばちゃん、至らないことばかりでご免なさいね。

  
           

SS・Select Shots・・・<12月の安息日学校から>


 “12月第四安息日(22日)、開校賛美歌を80人で歌おう!”−「安息日学校出席者倍増計画運動」が昨年秋から展開されました。そして、ほとんど目標達成! 推進役の小島真昭さん、みなさん、ありがとう。

 安息日学校の「開校賛美歌」の歌詞を、毎期、墨痕あざやかにお書きくださっているのは赤塚孝江さんです。



1月のスケジュール


1/1 (火) 元旦礼拝
        [説]長池 明夫牧師
 /5 (土) [説]長池 明夫牧師
       教課合同
 /12(土) [説]松本 裕喜神学生
       役員会・長老会
       子羊クラブ
 /19(土) [説]長池 明夫牧師
       理事会
 /26(土) [説]長池 明夫牧師
       子羊クラブ
*この号は旧メンバーで作成しました 編集部


ED園だより

  穏やかな快晴の2008年元旦を迎えられましたことを感謝します。終わりの世のしるしがあからさまになってきているとはいえ、私達にはすぐ先の未来に何が待ち構えているかは分かりません。しかし、未来をその手に握っている方が私達の手を引いてくださいます。主は、「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共ににいる!」と言われます。(マタイ28:20)「わが道の光」としてみ言葉を掲げていきたいと思います。                       (Yo)


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