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2004年7月 第211号                                         
    「加齢は祝福」である
        
           SDA東京中央教会長老 熊谷 幸子    
     
 神様は人の生涯に,何よりも教会に「老」という素晴らしい平衡器をお備えになりました。聖書にも老を称える(たたえる)み言は少なくありません。
 その一つがヨブ記12 : 12の “老いた者には知恵があり、命の長いものには悟りがある。”
 ところが32:9になると “老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない”と一転します。かのアリストテレスでさえ「老年は、狭量・執着・吝嗇(りんしょく)…等々の性格で特徴づけられている」と、きつい言葉を残しています。
 しかしキケロはうれしいことに論駁(ろんばく)します。「老年に向けられる非難の多くはすべての年代に共通するもの」と。いずれにしても聖書が伝える以上、どちらも老の真実の姿です。
 その才気と野心ゆえに敬遠された当代切っての知識人、松浦静山(1760〜1841)は、62歳になって猛然と書き始め歴史・風俗など多岐にわたる随筆生全278巻を遺しました。中に “くどくなる気みぢかになるぐちになる…” といった老の狂歌まで収められています。
 人間ほど年をとると周囲からないがしろにされる存在はありません。もうお呼びでないと言われてからの静山は、それまでの広い見聞と峻別力を味方に、堂々次世代に伝承すべきものを伝えたのでした。
 さて私が高度成長まっ盛りの会社で働いていた70年代も例外ではなく、若さを価値の最上位におく日本の社会は、濡れ落葉といった暗い言葉やイメージを振りまくことこそすれ、人生の深さや陰影を語る成然した感性には乏しかったようです。そんな風潮に流されて、大病で倒れるまでの私もまた、老はもっとも向き合いたくないものの一つでした。
 病も老も死と隣合っているという点で共通しています。不幸なことに現代は、老を通過しないで死を迎える子供や青年も大勢います.だからこそ、死を意識して初めて真に生命の創造主と出会うことができたのは、神の大きな憐れみと恵みでした。その年、私は自分の無力さに完全打ちのめされ、人間を超えた力にすがって生き直したいと心底願い受洗しました。
 それから早16年。まさしくわれらの年の尽きるのは、ひと息のようです。” (詩90:9) 自分の弱さも隠された賜物であり、老も一つの冒険、死も未知なる体験と受け容れた時から、余計なものが剥ぎ取られていきました。
  “空の鳥を見るがよい…” (マタイ6:26〜30) 今このみ言が心にしみます。人や自然との様々な出会いが織りなす生の不思議さを、更に深く味わい伝えよと、み言は私を促します。
 若さは尊い。突っ張っている眩しいあなたが好きです。そしてそのあなたもあと数十年(ひといき)でシルバーパスです。園田夏姉や曾根田政子姉(他大勢)ほどの感謝と喜びをもって、その時も教会に集えるでしょうか。
 老はもろもろのお別れを受容する修練の季節。それでも教会における「老」は、豊かな出会いや発見を拡げていくことのできる可能性と希望を指し示しています、信仰と人生の先達が集う東京中央教会。ここは生涯を通じて学びあう学校です。そこに備えられた平衡器は、決してブレーキばかり掛けるものではありません。
                                                                                                      






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